1948年、子龍は豊岡で、師・上田桑鳩を中心とする一門の機関誌『書の美』を創刊しました。
疎開で豊岡に戻るまで東京で書道誌の編集に携わってきた子龍は、その経験を生かしながら、編集だけでなく、掲載する作品の制作、臨書、文章の執筆まで、自ら幅広く手がけていました。
子龍は当時をこんな言葉で振り返っています。
「兵庫県の北端、片田舎に居ながらも、ここが日本の中心だぞ、などと嘯(うそぶ)きながら……編集だけでなく、全てを手がけて楽しく仕事をしていた。」
この言葉からは、東京から遠く離れた豊岡にいながら、自分は書の世界の中心にいるのだという、子龍の強い自負が伝わってきます。
そして『書の美』は、次第に一門の機関誌という枠を越え、書そのものを問い直す実験の場へと変わっていきます。
作品をつくり、編集し、文章を書き、仲間たちと議論を重ねるなかで、子龍は「書とは何か」という問いそのものを、次第に深く掘り下げていきました。
1950年には誌上に「α(アルファ)部」を設け、従来の書の枠にとらわれない造形の探究を始めます。
豊岡で積み重ねられたこうした実験と思索は、1951年の『墨美』創刊、そして1952年の墨人会結成へとつながっていきます。
のちにうねりを上げて世界へと広がっていく子龍の活動。その大きな流れは、この豊岡で静かに動き始めていたのです。 この言語の音声はまだありません
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豊岡で生まれた『書の美』 | 森田子龍