敗戦後、子龍は、既成の価値や秩序が大きく揺らぐなかで、これからの時代に書はどうあるべきかを問い続けました。
1951年に創刊した『墨美』で掲げた目標の一つが、書を現代の芸術として確立し、世界へと開いていくことでした。
画家・長谷川三郎やイサム・ノグチを通じて当時まだ日本ではほとんど知られていなかったフランツ・クラインの作品と出会った子龍は、その黒い線と空間に強く惹かれ、『墨美』創刊号にクラインの作品を掲載します。
クラインもまた『墨美』に関心を寄せ、ニューヨークのギャラリーへ持ち込み、現地の芸術家たちに紹介しました。
その一人が、ニューヨーク在住の画家アル・コプレーです。コプレーは『墨美』を広め、子龍と現地の芸術家たちをつなぐことに最も尽力しました。二人は数多くの手紙を交わし、のちにはコプレーが家族で京都の森田家を訪れるなど、生涯にわたる深い友情を育んでいきます。
一方、パリでは1952年、ベルギーの画家ピエール・アレシンスキーが版画工房で偶然『墨美』を目にし、子龍たちと交流を始めます。翌1953年、子龍はパリの「サロン・ド・オクトーブル」に《無量寿》を出品。これが初めての海外出品となりました。
その後、子龍の作品はニューヨーク近代美術館(MoMA)、カーネギー国際美術展、サンパウロ・ビエンナーレなど、世界の現代美術の舞台へと広がっていきます。1963年にはニューヨークのMi Chou Galleryで初の海外個展を開催しました。
子龍が目指したのは、一人の書家として海外で成功することではありませんでした。
「書」という芸術そのものを、世界の現代美術と対等に語られる場所へ押し上げること。
『墨美』という発信の場をつくり、人と人をつなぎ、作品を世界へ送り出すことで、子龍は「虹」として思い描いた東西交流の構想を、少しずつ現実のものにしていったのです。 この言語の音声はまだありません
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「書」を現代美術の舞台へ | 森田子龍